最近、湯船に浸かりながら「いやー生きてるな」って感じる事が多いです。
最近と言わず、バンクーバーに来てからずっとですが。
(湯船は結構こっちの家にもあります)
この感情って今まで28年間生きて来て、あまり感じたことのない感情だなと思います。
ちょうどこないだ村上春樹師匠の「走ることについてほにゃらら」の本を英語で読み始めたのですが、
そこには、結局大事なことは肉体的な痛みをもってしか得る事ができない的なことが書いてありました。(もしかしたらこの本じゃないかも)
この「生きてるな」っていう感情もこの感覚に近い気がしてます。
よく聞く、コンフォートゾーンから飛び出す事が成長する為の鍵ですよってのと同じで、
ちょっとメンタル的に刺激がないと、改めて「生きてるなぁ」って感じることってないのかもしれないです。
バンクーバーに来てから感じるようになったこの「生きてるなぁ」感ですが、
なぜ日本ではあまり感じることができなかったのか。
ちょっと考えてみました。
なぜ日本で感じることが出来なかったのか
多分ですが、日本でしっかりとうまいことやってる人って、ちゃんとコンフォートゾーンを飛び出してるんだと思います。
もしくはそれが無意識で出来てしまってるのかもしれないなと。
この辺は正直僕にはわかりませんが。日本でうまいことそれができていなかったので。
なぜ僕が日本で、コンフォートゾーンを飛び出すことができていなかったのかと考えると、
超周りの目を気にしていたから。この一言に尽きます。
これをすると周りの人にどう見られるのか。色々言われないか。とか諸々。
僕が唯一意識的にコンフォートゾーンを飛び出したのは転職した時くらいかなと思います。
相当エネルギーを消耗した記憶があるので、あれは間違いなくコンフォートゾーンを飛び出したんだと思います。
28年間生きてきて、意識的にコンフォートゾーンを飛び出したのは、この転職だけです。
(学生時代ベルリンに一年間住んだけど、あれは就活から逃げるようにして決断した事だから、コンフォートゾーンから飛び出したとは言えない)
それだけ僕は、人の目を気にしすぎて、新しいことに挑戦する事が出来ていませんでした。
なぜバンクーバーではコンフォートゾーンを飛び出せるのか
今コンフォートゾーンを飛び出せてる理由は大きく分けて二つあります。
一つ目は、そもそも周りの目を気にするほど知り合いがいないから笑
二つ目は、基本的にまだコンフォートゾーンが存在していないから笑
ほんとこんなちっぽけな理由です。
一つ目の周りの目に関しては、文字通り気にする目がないので、新しいことに挑戦する際に自分の意志だけで決める事ができます。
二つ目のそもそもコンフォートゾーンが存在しないという話。
なんじゃそりゃって話になるけど、新しい生活で何の基盤もない為、すべてが新しい挑戦になるわけです。
新しい挑戦と言うと、かっこいい響きになりますが、なんてこともないことが全てコンフォートゾーン外になります。
例えば、
知り合いが全くいないホームパーティーに参加する事。
(こんな事でも、ものすごいエネルギーを消費します)
近くの体育館のサッカーに参加する事。
(こんな事でも、ものすごいエネルギーを消費します)
こういうことを通して、バンクーバーでの生活の基盤のようなものを作っていっている最中ですが、
言語やカルチャーの違いがあるので、毎回毎回、少し一歩踏み出してるような感覚があります。
そんなこともあって、ものすごいエネルギーを消費します。
もっともっと規模の大きな話をすると、
移民である自分がこの先カナダでやっていくには、もっとスキルがないとやばいなという焦りもあります。
そういう漠然とした不安が、新しい事を学び続けなきゃというモチベーションに繋がることもあります。
(ネガティブなものがモチベーションに繋がるというのもおかしいけど)
そんなわけで、新しい事を学ぼうという、一種のコンフォートゾーンの飛び出しに繋がるわけです。
こういう小さなことからまぁまぁ大きなことまで、全部積み重なって、かなりエネルギーを消耗しています。
そして、最終的に湯船での「生きてるなぁ」というところに繋がっていくわけです。
まとめ
ということで、良くも悪くも、日々の飛んでもないエネルギーの消費が、
コンフォートゾーンを飛び出している証しなのかも知れないです。
そしてそれこそが、「あぁ生きてるなぁ」の根源なのだ!なのである!なのだと思います。
コメント
だんだん村上春樹的な書き口になってきた。笑
こないだホーチミン行ったけどパワーが凄かった、、日本にいるとわからんことだらけやな